道路の両脇に走るシャレイ・ブルーのネオンを、まるで室内アリーナに規則正しく引かれたテープラインのようだと少女は思った。
メトロポリス・シュオン標準時、午後四時四十八分。都市内を流れるように作られたフリーウェイを走る、黒塗りのセダン・タイプの車。 その助手席から、白のワンピースとフェイクレザーのジャケットに身を包んだ少女が、薄いスモークが掛かったガラス越しに流れてゆく風景を眺めていた。いくつもの高層ビルが墓標のように佇み、夕焼けがそれらを照らし出している。メガコーポや行政機関が集中する一帯は都市を支える心臓と言ってもよい。そして、少女が少し身を乗り出す形で視線を高くすれば、はるか遠くに様々な光の点滅を望むことが出来る。高層ビル群から漏れる光とは些か趣きが違うそれは、赤・緑・青・水色・黄……と、鮮やかな色で少女を招きいれようとしているようだった。目眩のような光のまばたきと、立ち並ぶ墓標たち……。少女はその風景をよく知っていたが、しかし、全く知らなかった。つい先程、高い丘の上での暮らしを終えるまでは。運転席でハンドルを握る男は苦笑気味に口角を吊り上げる。男にとって見慣れたその町並みを、少女が――“初めて”見たとはいえ――夢中になっていることが、なんとなく面白かったのかもしれなかった。
「外の世界は珍しいか、スズ」
スズ、と呼ばれた少女は一瞬間を置いて、それから小さく頷いて応える。視線は相変わらず、シュオンの町並みから離れることはなかった。
「はい。空が広いです。それから、建物も大きいです」
「“植物園”の空は狭かったのか?」
「はい。“植物園”はホールの天井に穴が一つ大きく開いていて、そこから見える空だけが、私の知っている空でした」
多分、あの大きさと同じくらい。スズが指差した先は、円形の有機ELパネルの看板だった。“健全な精神、そして肉体をあなたへ――S.L.Mファーマ”。快活そうな笑顔を浮かべる白人男性が、ボトル型の白いプラスチック容器を顔の横に掲げている。そしてプラスチック容器の栓を開け、中の液体を飲んでいる映像が、数十秒おきにループしている。シュオンで圧倒的な人気を誇る、精神調整剤を含んだ栄養ドリンクのコマーシャルだった。スズの興味が、その内容に向くことはない。
「こんな空、これから嫌というほど見られる。お前だって飽き飽きするだろうよ」
「はい。ありがとうございます、カタギリさん」
「他人行儀な呼び方はよせ。だいたい、お前だって今日からカタギリなんだからな」
スズは笑ったような顔をして見せた。が、それはあくまで笑ったような顔、でしかない。口角を吊り上げて目を細めれば笑顔が作れると、そう教わり真似たような顔。男――カタギリは、その表情のぎこちなさに僅かに眉を顰めた。
「では、何と呼べばいいのでしょうか」
「何でも好きにしな。パパでも、お父さんでも、お父様でも、……まあおじさんでも。仕事仲間は班長って呼ぶが」
「班長……」
「ただのお守役だけどな。ガキどもはみんなそう呼ぶ」
「ガキども……?」
「ああ。お前の同僚になるやんちゃなガキどもだ」
ギアを一段階切り替え、カタギリはハンドルを少し、右側に切った。スロープのように続く道を下ってゆくと、ビルがひしめく市街の下道へと出る。スズが眺めていたブルーのネオンラインは、下道には続いていないようだった。スズはフロントガラスから覗き込むようにして、先程走ってきた道を見上げた。フリーウェイは彼女が考えていたよりもずっと高い位置で、街を縫うように流れている。
あれより高い丘に、彼女の言う“植物園”は建っている。
「まだ少し時間があるが、どこか寄りたい所はあるか?」
「どこか?」
「何か、髪留めとか、小物とか、色々欲しいもん、あるだろ。俺が金を出してやるよ」
「いえ、特に必要なものはありません」
無機な回答にカタギリは肩をすくめる。
「……まあ、暮らすうちに何か欲しいものも出てくるだろうよ。暫くは俺が買ってやるから、気が向けば言え」
「ありがとうございます」
スズは姿勢を崩さないまま小さく頭を下げた。 が、しばらくもしないうちに、何かを思い出したようにぽつりと一言、スズは呟く。
「お腹……」
「あ?」
「お腹がすきました」
間髪入れずに聞こえるのは「きゅう」という可愛らしい音。カタギリが彼女に目線をやると、彼女はじいとカタギリの顔を見つめていた。その感情は読めないが、特に恥ずかしがっている様子はない。先程のような作った笑顔もない。しかしカタギリには、夕日に照らされた彼女の頬がわずかに赤く染まっているように見えた。
カタギリは思わず吹き出してしまう。――先程の不自然な笑顔なんかよりも、ずいぶん自然な表情じゃないか。
「くく、ああ、いいな。腹ごしらえするかね。なあ、何が食いたい?」
「何がありますか?」
「まあ、だいたいなんでもあるさ。お前、好きな食い物は?」
「好き……月に一度、園長先生がくださったブドウ糖のタブレットが好きでした」
「……ああ、うん、なるほど、よし、分かった。温室では絶対食えないようなもんを食わせてやる」
カタギリは派手にハンドルを切りUターンする。行き先は経済特区内で人気のファストフードショップ――経済特区内の健康基準を満たす健康的な物だが――だ。スズが気に入るかどうかは分からない。だが少なくとも、ブドウ糖のタブレットよりは味気のあるものだろう。
メトロポリス・シュオンは800万人以上の住人を抱える多民族都市国家である。
面積はおよそ2,200k㎡。人口の4%程度存在する富裕層が、シュオン内の約60%の土地を保有している。彼ら富裕層が居住・労働を行うその区画は、大きく六つの区画に区切られており、建立する建物達には無機な『A-001』などという番地が割り振られている。その都市内を川の水のように流れているのが、先ほどまでカタギリの運転する車が走っていた高層フリーウェイだ。フリーウェイは富裕層の住まう土地を満遍なく流れている。ナビゲーションに簡易的な設定さえすれば、あとは目的地に簡単に移動できてしまう寸法だ。
この街には無駄が存在しない。塵ひとつ落ちてはいない。清掃ドローンが一日五回街を巡回し、すべて拾い上げてしまうからだ。下品なネオンのぎらつきも、そこに屯するごろつき共も、何も存在しない。あるのは企業のクリーンな電子広告と、過剰なまでに整えられた町並みばかり。理想的な都市計画に基づいて作られた美しい街。それがこの“経済特区”だった。
しかし、それはあくまで“約60%”のみを指している。スズが眺めていた“様々な光の点滅”達――残り40%達とも言うべきか――は、富裕層の住まう街の美しさなどお構いもなく、ぎらついた繁栄を見せ続けている。いつからか貧困区、とあだ名され蔑まれるようになったその場所は、経済特区に住むことを許されない768万人が、過密都市を形成しながら生活をしているのだ。
「……で、ここから見えるあのあたりが、その貧困区ってわけだ」
夕焼けはすっかり過ぎ去り、空には闇が訪れていた。しかし一切の暗闇ではない。高層ビル群から漏れる明かりは、あたりを照らすには十分であったし、商業区には淡い温白色のライトが満ちている。
カタギリとスズは車を降り、海沿いにある公園のデッキから、遠く離れた景色を眺めていた。公園は港からさらに海へ迫り出す形で作られている。カタギリの言う貧困区を、対岸の別世界のように見渡す事が出来た。白基調の洒落た公園はライトアップされ、雰囲気は悪くない。しかし周囲には二人以外に誰も居らず、あたりはしんと静まり返っている。冷えた潮風が二人の間を抜け、暖房の効いた車内で熱を持った頭を冷やしていく。だが、心地よさなどは一切ない。ドブのような匂いが、その冷えた風と共に吹き抜けているのだ。それはかつてシュオンが成長過渡期であった頃、あらゆる化学物質や生活排水を処理せぬままたれ流してきた結果だった。ロマンチックなデッキも、今の季節は海が悪臭を運んでくる場所となってしまっているわけだ。
――しかしスズにとってはそんな臭いもお構い無し、ということらしい。ファストフードメーカーの袋――生分解性の物だ――を抱え、その中からフライドポテト――もちろんヘルシーで健康基準を満たしている――を取り出しては、口に放り込んでいる。
「連れてきたのは俺だけどよ、お前、よくこんな場所で食えるな」
「はい。訓練を受けましたので」
「植物園ってのはおっかねえ所だな、そりゃ」
スズはあくまで咀嚼をやめないまま、カタギリが指した方向に目を向ける。 カタギリが指差す先、“40%の街”は、いっそうぎらつきを増して夜を謳歌しているように輝いていた。
「あれが貧困区?でも――」
「ずいぶんと賑やかに見えるだろう」
「はい」
カタギリはポケットから小さな紙パッケージを取り出し、その中から一本、着火するタイプの旧式煙草を抜いた。そしてヒンジが錆びたジッポライターで火を灯した。人体に害のないように作られた電子煙草が主流である現在、こうして自ら進んで体を痛めつける真似をする人間は、少なくとも経済特区には殆ど居ない。
「ハンバーガー、美味かったか?」
「多分、はい、美味しいと感じたと思います」
「そうか。でもなぁスズ、そのハンバーガーよりもっと美味い食い物があっちにはあるんだぜ」
スズが目を丸くするのをカタギリは見逃さなかった。
「残念だが、今日はアッチには用事がねえんだな。俺達が向かうのは――――、」
指すべく手を上げたカタギリは、その後の言葉を続けず、わずかに顔を強張らせた。
――言葉を遮る電子音。スズにとっては聞きなれない、高いトーンの規則的な連続音。カタギリはその音に反応し、左腕を上げ覗き込むようなそぶりを取る。見れば、彼の左腕に嵌められた腕時計の小型パネルが青白く点滅をくり返し、呼び出し音を吐き出していたのだ。カタギリは眉を顰め、慣れた手付きでパネル中央を何度か軽く叩いた。すると、ホログラムのディスプレイがアニメーションを伴って展開。中央には赤毛の猫のアイコンが大口を開け笑い、そこに鎮座していた。
『班長、ちょっといい?』
少年の声だ。変声期は迎えているようだが、まだまだ子供っぽさが抜けていない。少年の声に合わせ猫のアイコンが口をパクパクと動かしている。まるで人形劇かなにかのようだ。スズは訳がわからぬまま、背伸びしてカタギリの端末ディスプレイを覗き込んでいた。
「どうした、フォン」
『実はさ、ちょっと困った事になってて。不正輸出の件、とっ捕まえる前に社長がとんずらしちゃったみたいで……。踏み込んだ時には窓から逃げてて、姉ちゃん怒り狂って追いかけてんの。奴さん、どうも上手いこと路地に入り込んでるみたいでさあ、“オラクル”が上手く捕捉できてないんだよね。今ダフ君が頑張って探してるけど、まだ少し時間がかかるって 』
「ハア……。で、お転婆娘たちは今どのあたりだ」
カタカタという、小気味よい僅かな音が聞こえる。パッド型の入力端末でない、古いタイプのキーボード端末のタイプ音だ。フォン、と呼ばれた通信相手の少年は、そのアンティーク品のような入力端末を愛用しているようだった。
『C-a05ゲートから出て、今は天仔のあたりだね。行けそう?』
「行くさ。飛ばせば五分もかからんだろう」
転送されてきたマップは複雑に入り組み、迷路のようだった。その上で黄色と紫の丸が、迷路を解くように動き回っている。カタギリはマップをクリップし、タバコを目一杯吸い込んだ。
「今から新入り一人連れてそっちに向かうつもりだったんだが、こりゃ先に現場を教える事になりそうだな」
『おーっ!噂の新入りちゃん?俺すっげー楽しみにしてたんだよ!班長、顔見せてよ顔!』
「それは後の楽しみにしとけ。とりあえずは声だけな」
きょとんとしたまま状況の飲み込めていないスズに、カタギリは端末を目の前に掲げて見せた。薄くブルーの光が走るスケルトンのホロディスプレイに、先程よりも愉快そうににまにま笑う赤毛の猫のアイコン。相手の顔は見えないが、この黒猫の表情を見る限りでは上機嫌なのだろう。スズは人相手にするように、律儀に頭を下げた。
「カタギリスズです。よろしくお願いします」
『うんうん、いいねいいね、初々しくってさ。やっぱ女の子にはこういう可愛げがないとねえ』
『なぁに?可愛げのあるオンナノコならここにいるでしょ?』
ホログラムウィンドウに割り込んで現れたのは、黄色と黒の縞模様の猫。これもまた赤毛の猫と同じように大口を開け笑っているが、声の主は少年でなく、若い女性のようだった。赤毛の猫のアイコンは大口を開けて笑うのをやめ、途端にホロディスプレイの端で大人しくなってしまった。縞模様の猫のアイコンは、ふんと鼻で笑ったような顔をする。
『班長?今薬中と二手に分かれてターゲットを追ってるけど、ちょっと足が早すぎるわ。オラクルに見つかってないなら天仔を出てないと思うけど――』
「相手はジイサンだろ?若者二人が情けねえなあ」
縞模様の猫は顔こそ笑っているが、声の主は先程から息がずいぶんと荒い。何かを蹴り倒すような音と忙しない足音が、絶え間なく声の後ろで聞こえている。彼女はどうやら走りながら通信しているようだった。
『あのジイサン『ライラプス』に乗ってんのよ!生身のあたし達が追いつけるわけないっての』
「まったく金持ちのやる事ァかなわんな」
『そういう訳だから、班長、あたし達がバテる前にはやく来てよ―― あ待てコラそこかクソジジイ!!逃げンじゃねえブッ殺すぞ!! 』
通信が切れる間際、ドスの効いた怒鳴り声とともに一発の銃声。阿修羅のような表情を浮かべた縞模様の猫のアイコンは「Log out」という淡白な文字列へと変化して消えた。代わりに画面端からそろそろと赤毛の猫のアイコンが現れる。先程までの笑顔はどこへやら、汗をかくようなモーションを伴って、今にも泣きそうな顔をしていた。
『……姉ちゃんがターゲットをブッ殺す前に頼むね』
いや、ブッ殺されるほうがましかもね……。消え入るように彼が呟いた言葉の意味を、スズはまだ、知る由もなかった。
規則正しく区画整備された下道を、カタギリはアクセル全開、ギリギリのブレーキングで走り抜ける。先程のフリーウェイでの走行とは様子ががらりと違う。スズはシートベルトをぐっと握り締める事で耐えていた。他の走行車は、カタギリに道を譲るように路肩へと逸れてゆく。その様子は煌々と光る赤いランプを恐れているようにも見えた。
あっという間に市街地を抜け、そこから緩やかなコンクリート舗装の道を暫く走り、フェンスが何枚も立てられた――まるで世界を区切るように存在する――重々しい門を通り抜ける。やがて経済特区の様相とは違う風景が、迫るように流れていった。美しい町並みなどそこにありはしなかった。景色は徐々に煤けたような灰色を帯び、汚らしい錆び付いた配管、油の浮いた水溜り、土が剥きだしの道路が、そこに現れ始めた。
明らかに建築基準を超えた鉄筋コンクリート製のビル達。とって付けたように積み重なる、小屋のようなアパートメント。過剰なまでにあちらこちらに伸ばされた電線。まともな舗装がされていない土っぽい大通り。その両脇に広がる、飲食店や出店の数々。飲食店では、顔を赤らめて大笑いする人々が、食事を楽しんでいる。
そして、大通りの空を覆いつくさんばかりのネオン、ネオン、ネオン……。蛍光色の文字列達が、己を主張するように強烈な輝きをもって、煤けた汚い街を美しく彩っていた。スズは思わず息を呑んだ。これがあの、経済特区の高台から見た街だったのだ。“植物園”では『貧しい者が住む』と教えられた、その場所。スズの想像をはるかに超え、貧困区は、豊かに人々を抱え込んでいたのだった。
スズの静かな感動を他所に、カタギリは大通りの端に車を停車し、端末を操作しては険しい顔を浮かべていた。クリップしたマップの上では、相変わらず紫と黄色のアイコンが動いている。様子を見る限り、ターゲットを未だ正確に捕捉できていないようだった。するとマップ上に、小さなウインドウが割り込むようにして現れた。真ん中にはアイコンが表示されているが、そのアイコンは黒猫でも縞の猫でもない。横を向いた大鹿の青いシルエットのアイコンだった。カタギリは待ちわびたようにすぐさまウインドウをタップし、状態を通話へと切り替えた。
『班長。遅くなりました。ターゲットの正確な位置を特定しました。詳細な座標を送ります』
落ち着き払い、ゆったりとした口調のバリトンボイス。男性の声だった。先程の猫アイコン達とは違い、こちらは声に合わせて口を動かすことも無ければ、表情も変えることもない。
「よし!エイベル、念のためそのまま追跡を続けてくれ……無理はするなよ。そっちは特に問題ないな?」
『ありがとうございます。こちらは問題ありません。ユリヤさんが「出番がない」とスネているだけです』
「後でドーナツ買ってやるからって宥めておいてくれ」
了解です、という短い返事とともに、青鹿のアイコンは姿を消した。カタギリは腕時計型端末をハンドルのクラクション部に素早くかざした。車のフロントガラスに、転送された半透明のマップが一瞬で現れる。黄色、紫の丸いアイコン以外にもうひとつ。赤く点滅する三角のアイコンが、丸アイコンよりも早いスピードで移動していることが確認できる。この赤い三角のアイコンこそが、追跡を逃れようと入り組んだ路地でもがくターゲットだった。
「どうやってターゲットの位置を割り出したんですか?」
「あいつの才能だよ。時間が無いから説明は後回し」
赤いアイコンを目で追いながら疑問を口にしたスズに、カタギリは構っていられないといった様子だった。エンジンをかけ直し、カタギリがハンドルを握る車は大通りを突き抜ける。何度か直角に曲がるたび、スズは振り回されそうになりながらも、動き続けるマップ上の赤いアイコンを追っていた。カタギリはターゲットの進行方向に回り込むような位置を目指しているようだった。そして、先程まで動きに戸惑いがあった紫と黄のアイコンが、今では赤いアイコンを着実に追い込むように規律ある動きをしている。
おそらくターゲットは、自身の位置が筒抜けなどと気づいてはいない。今でもやみくもなルートで追跡されていると思い込んでいる。二頭の番犬は、そのことを悟らせないよう泳がせつつ羊を柵と追いやってゆく。あとは柵に追い詰められた羊の首を、牧場主が掴み上げるだけだ。
「……さて、スズ。お前も知っている通り、今日から俺とお前は親子だが、同僚でもある」
車のトランクを開け中を漁り、カタギリは小さめのボストンバッグを取り出した。死体袋のような物々しさを感じさせる黒のバッグだった。カタギリの車は、場末のバーの看板ばかりが出されている薄暗い路地の入り口に停まっていた。さらに細い路地へと伸びるそこは、目を凝らして覗いてみれば、みすぼらしい格好をした男性が死んだように転がっている。傍らには何本か注射器が落ちていた。
「現場実習だ。順番が狂っちまったが仕方がない」
ボストンバックのジッパーを開けると、中には何挺かの銃、それから短く畳まれた警棒が二本。それらはまるで工具かなにかのように詰められていた。その中からカタギリは銃を一挺取り出すと、マガジンを確認するように排出・挿入し、スライドを引いた。
「お前、戦闘訓練はどこまで履修した?」
「S-3まで終了しました」
「そりゃ頼もしい。好きなもんを取れ」
ボストンバッグの口を広げ、スズは満遍なく中身を品定めする。デリンジャータイプの小型の銃、鈍く輝くリボルバー。スズが取り回すにはいささか大型に見えるサブマシンガン。ポピュラーな自動式拳銃も二挺ある。そしてボストンバッグのすみで、二本の警棒が狭そうに縮こまっていた。スズは警棒を一本、それから拳銃を一挺取った。警棒を一振りすれば、一瞬で彼女の腕ほどの長さに伸びた。スズは満足そうに頷く。
「ヒラヒラした格好ではやりにくいかもしれんが、まあ今日は我慢してくれ」
「問題ありません。行けます」
カタギリはスズの返答を聞くや否や、先行し路地へと入っていく。光源は空に浮かぶ月と、通りからわずかに漏れる明かり程度しかない。このまま二人を飲み込んでしまいそうな暗闇だった。スズも続いて、暗い路地へと足を踏み入れる。
配管から漏れたのであろう水溜りが、スズの上等な革靴を汚す。流れ出した油がねっとりとした光沢を孕む黒い汚れだが、スズが構う事は無い。音を立てぬよう、カタギリとスズは慎重に、かつ迅速に、マップ上にマークした目的地へと向かってゆく。紫のアイコンが少し追いつけば、赤いアイコンはそれを上回るスピードで方向を変え逃げ回る。そこに黄色のアイコンが回り込めば、赤いアイコンは建物と建物の間に縫うように入り込む。徐々に広がってゆく赤アイコンとの距離。このままのスピードでは、マークした位置から逸れて逃げ切られてしまうかもしれなかった。それでも、彼らとカタギリの動きに焦りはない。
遠くで一発の銃声、そして怒鳴り声。ガラスが割れるような音や、金属が落ちたような高い衝撃音も聞こえる。怒鳴り声はおそらく女性のものだ。随分と騒がしくしているようだった。その音を聞きつけたのか、赤いアイコンは急速に転回し進行方向を変え、マークした地点へと吸い寄せられるように高速で進んでゆく。
カタギリは曲がり角で一旦立ち止まり、一度深く息を吸い込んだ。
「ここを抜けたら一気に走って距離を詰める。いいな」
スズは無言で頷いて、銃のグリップを握り直した。カタギリがもう一度、確認するようにマップに視点を落とす。ターゲットとの距離は近い。逃げ切る前に接触が十分可能な距離だ。
カタギリが走り出す。スズも半歩遅れ、路地から駆け出す。マップによればこの先には、小さな公園のように開けた場所がある。その場所に入り込むには、東に伸びる路地か南に延びる路地のどちらかを通らなければならない。つまり、逃走するときもそのどちらかを通らなければならない。カタギリ達は南から追っている。ターゲットは、東から広場に逃げ込もうとしている。追跡され続けているターゲットに、最早引き返すという選択は頭の中に残されてはいない。引き返した所で、自身を追いかけ回した番犬達が待ち構えているのだから。
広場に入る寸前、カタギリはスズを静止し、物陰に隠れるようハンドサインを出す。聞こえるのは、ターゲットのバタバタという足音。マップを確認する。赤いアイコンが、広場に入るまで、3、2、1……。
現れたのは、小太りの男。随分疲れきっているようで、ふらふらとしながら歩いている。上等なスーツを着ているようだが、すっかり皺だらけで、みすぼらしく見えた。
カタギリはスズにアイコンタクトし、路地を飛び出した。スズも間髪入れずに飛び出す。そして銃を構え、ターゲットの額にぴたりと照準を合わせた。
小太りの男は一瞬目を見開いて硬直する。そして憎悪に満ちた表情を浮かべると、沸騰したかのように顔を赤くした。あわてて東の路地に引き返そうとしていたが、既に遅かった。カタギリが回り込み、東の道を塞いでいた。
男はきょろきょろとあたりを見回すが、カタギリとスズがそれぞれ塞ぐ道以外に、逃走ルートはない。周りはトタンの壁に囲まれている。よじ登って逃げようとしても、カタギリとスズが見逃す筈はない。観念したように、男は両手を挙げ哀願する。
「や、やめてくれ!俺は丸腰だ、もう抵抗はしないから……」
「これだけ逃げ回っておいてよく言う」
「し、仕方ないだろう!“犬”に振り落とされて、も、もう逃げようがなくなったんだ……」
何も武器を持っていないということを示すためか、男はポケットをひっくり返したり、スーツの上着を脱いで見たり、挙句の果てにはスラックスまで脱ごうとしていた。カタギリはそれを呆れたようにやんわりと静止する。
これで決着した。銃を収める事はしなかったが、カタギリは銃を下ろし、ゆっくりとした歩調で近づいてゆく。あとは拘束し、自分達の巣に連れ帰れば終わりだ。
しかしその瞬間、高い射撃音とともに、小太りの男の顔面は引き攣った。そして、後ろに倒れこむように尻を突いた。
スズの構える銃から硝煙が立ち上る。男の足元を狙って撃ったのだ。カタギリはスズの名前を怒鳴るように呼びつけたが、彼女が銃を下ろすことはない。決してトリガーから指を離さず、すぐさま男を撃ち抜こうと狙いを定めている。
「彼は駄目です」
「投降した非武装の民間人だぞ!」
「彼は投降なんかしていません」
「……お前少しおかしくないか?一体どうした――」
「私には分かる。信じてください」
スズはもう一度トリガーを引くべく、指先に力を込めた。
しかしその決断は、あと一歩遅かった。
「――来た!」
一瞬、黒い影が、カタギリの頭上を過った。それが銀色の、大きな犬のような――あるいは狼かもしれない――造形の機械であることに気づくまで、カタギリはほんの少し時間を食った。気づいた時には、スズは上から強襲してきたその『犬』に馬乗りにされ、身動きがとれなくなっていた。『犬』に突き飛ばされ、トタンの壁に叩きつけられるようにして追い詰められている。スズは警棒でかろうじてその牙を防ぎ、攻撃をなんとか堪えていた。
「……ライラプスか!クソ……ッ」
カタギリは反射的に二発の弾丸を撃ち込むが、装甲にわずかなへこみを作るだけだった。ダメージはほとんど与えられない。
『ライラプス』は大型犬を模し設計された騎乗用オートマトンだ。『ライラプス』とは販売愛称で、正式には「自立走行式四脚移動車 K-1456b」と言う。価格は非常に高価で、一般的な乗用車であれば5台は購入できてしまう程だ。気安く買える物ではなく、経済特区内でもごく一部の人間しか所有していない。人工森林で狩を楽しむ者が相棒として連れている、完全に娯楽向けのロボットだった。通常、本来の犬のように噛み付くための牙は存在せず、また人を襲うようなプログラムも施されていない。しかし、スズに襲い掛かるライラプスは違法改造され、狂犬のように彼女を食い殺そうとしている。
ライラプスは歯をガチガチと何度も鳴らす。今にも警棒ごとスズの喉を食いやぶりそうだ。歯を食いしばり抵抗しているが、押し負けるのは時間の問題だった。
「こっ、殺せッ!! その馬鹿共全員殺すんだ!!」
男は捨て台詞を吐き、よろめきながら立ち上がる。そしてスズが先程まで塞いでいた路地へ入り込み、走り去っていった。カタギリは一瞬スズを見遣る。苦しげに眉間に皺を寄せたが、次の瞬間には逃走した男を追うために走り出していた。
「すまん!助けが来るまで耐えろ!」
「私は大丈夫です。気にしないで」
路地へ消えるカタギリにスズは笑って答える。それは虚勢からでも、無理を押した笑顔でもない。心の底から、この状況を楽しむような微笑みだった。
足音が遠くなってゆくのを聞きながら、スズはライラプスの腹部を力いっぱい蹴りつけた。押し返すことは出来なかったが、ほんの一瞬、警棒に齧り付いた力が緩む。その僅かな隙にスズは銃の撃鉄を下ろし、ライラプスの顎に一発、銃弾を撃ち込んだ。顎の装甲は他の部位より薄いらしい。本物の犬のようにキャンと悲鳴を上げ、スズから飛び退く。それでも貫通させるまでにはいかなかったのか、飛び掛かろうと体勢をすぐさま立て直した。
スズは銃を雑にポケットにねじ込んで、警棒をまるで剣のように構える。そして、乱れた呼吸を整えるようにふうと一呼吸置くと、挑発するように警棒の先を揺らす。「遊んでやる」、そう言い放つように。ライラプスは体勢を低くし、勢いよくスズに向けて突進した。それをスズは正面から迎え打つ。まずは脳天を狙うように、素早く警棒を振り下ろす。しかしすんでのところで攻撃は逸れ、鋭い牙がガッチリと警棒に噛み付いた。甲高い金属音とともに火花が散る。スズは待っていましたと言わんばかりに、勢いに任せ警棒ごと地面にライラプスを叩きつけた。自重をそのままの勢いで叩きつけられたライラプスは装甲が歪み、パチパチと小さくショート音をさせながら一度大きく痙攣した。それでも完全に壊れてはいないのか、数歩飛び退き、カチカチと歯を鳴らしスズを威嚇する。
「随分頑丈」
スズは呆れたように吐き捨て、ふたたび警棒を構え直した。間髪入れずにライラプスが飛ぶ。スズの真上から襲い掛かるようにして落下し、大口を開け、彼女の顔面を狙う。スズは先程のほうに脳天を狙うことはなく、ぐっと身を屈め、今度は開けた大口を狙うように警棒を突き出した。それを察知したライラプスは、空中で身を捻り警棒を蹴った。スズはその重さに手をとられふらつき膝をついたが、決して警棒を離すことはなく、銃をポケットから引っ張り出しがむしゃらに3発発射した。弾は当たらなくてもよかった。ライラプスが怯んだ隙に、スズは膝を払って立ち上がった。がむしゃらに撃った一発が運よく間接部に命中したらしい。とめどなく血液が溢れるように、ライラプスの左前足から火花が溢れていた。スズはにやりと笑って、ふたたび警棒の先を揺すって挑発した。
飛び掛るライラプスの勢いは、先程より随分弱くなっている。はじき返しては飛び掛り、また突進して足に食らいつこうとしてくるが、スズにはもうその動きが全て読めていた。しつけの悪い犬を調教するように、軽くいなしていく。そして頭部を重点的に殴りつけ、着実にその回路にダメージを与えてゆく。
装甲があちこちへこみ、頭部と前足から火花を散らせるライラプスは、限界が近いようだった。薄く煙を吐き出し、小さく唸る。これが最後だろう。深く踏み込んで、突進すべく力を溜め込んでいる。そして僅かコンマ3秒後、ライラプスは強く地を蹴り飛びかかった。迎え撃つのは、細腕の少女ただひとり。
スズと鉄の犬は衝突し、勝負は直後、決着した。
黒いスーツを身に纏う男女がスズに追いついた時、そこにはもう、獰猛な獣などいなかった。あるものはただのショートする鉄の塊と、その傍らで、肩で息をして呼吸を整える少女だけだった。
警棒はライラプスの脳天を叩き割り、その頭部にめり込んでいた。パラベラム弾を防いだ合金の鎧は、少女が全力を込めただけの強烈な一撃で、無残に変形していた。その衝撃に耐えられなかったのか、めり込んだ警棒自身も、真ん中あたりでくの字に折れ曲がっていた。
男女の片割れである女がスズに駆け寄る。まとめた黒髪と、サイドに黄のメッシュを一本入れた女だ。スーツを着込みいかにもホワイトカラーといった様子だが、それにしては耳にはいくつものピアスが黒光りしている。彼女は鉄塊とスズを交互に見遣ってから、少し戸惑いがちにスズの肩を叩いた。
「……あんた、大丈夫?」
肩を何度か叩かれ、ようやくスズははっとしたように振り返った。
「……縞の猫さん?」
「は?」
「班長が、通信で……」
女性と同じ黒衣を身に着けた男性が、吹き出したように笑う。 褐色肌の見事な白髪の男だ。白髪ではあるが老人ではない。妙に整った顔立ちの青年だった。肌と髪のコントラストの差は非常に特徴的だが、なにより特徴的なのは、彼の額から一本、空想の生き物のような、角らしきものが生えている事だった。男性は汚いものを触るように、人差し指と親指で鉄塊からはみ出る配線の一部を摘んだ。そしてにやにやと笑いながら、警棒がめり込みへこんだライラプスの頭部を指差した。
「これ、君がやったの?」
「はい」
「どうやって?見る限りこいつは……そこのメスゴリラが金属ハンマーでぶん殴っても、叩き壊すのは難しいと思うのだけど」
「誰がゴリラだよシメるぞ」
黄色のメッシュを入れた女性は険しい顔をしながら、上着を脱いでスズの肩に掛ける。その表情は、先程カタギリが通信していた縞模様の猫とそっくりだった。
「んな事どうでもいいでしょうが!この子膝ずる剥いてんだから、早く手当してあげないと」
女性に指摘され、スズはようやく自身の膝の傷が存外深い事を知った。皮は派手に捲り上がり、破れた肉からからじわりじわりと血が滲み出ている。踝丈の白いソックスにまで垂れてしまいそうだ。白髪の男性はふうと小さくため息をついて、シワひとつない白のハンカチをスズに差し出した。
「自分で拭きなよ。僕は触りたくないから」
「あんたって本当に一言余計」
女性はハンカチをふんだくるとスズの前に屈み、腰のポーチから小瓶を取り、中の液体をハンカチに染み込ませた。そこに、狭い路地からカタギリが現れた。肩を貸すようにして逃走した男を連れていたが、男はどうも失神しているようだった。半ば引き摺られるようにしている。カタギリはよう、と手を上げて笑い、引き摺ってきた男を三人の前へと転がした。男は顔面蒼白で泡を吹いている。
全く、手間取らせやがって……。ぼやきながら、カタギリは肩をけだるげに回す。頬に擦り傷があるあたり、無茶苦茶な死に物狂いの抵抗を受けたのだろう。
そうした後、カタギリは男と同じように転がる鉄塊にようやく目を向けた。
「……なんだこりゃ。シン、お前偉く派手にやったなあ」
「あたしじゃないわよ、あたし達が来た時にはこうなってたの!」
ライラプスの残骸を見て頭を掻くカタギリに、「シン」と呼ばれた女性は、スズの膝の手当をしながら噛みつくように答える。
「するとスズ、お前が?」
「はい。頭部を破壊するのが最適解と考えました。間違っていましたか?」
シンが手際よくハンカチで手当てを済ませてゆくのをじっと眺めていたスズは、ゆるりとカタギリに向き直り、不思議そうに首をかしげた。そんなスズの様子に、カタギリは大げさなため息を吐く。
しかしそのため息はやがて苦笑いに変わった。彼はスズの頭をわしわしとしつこいほどに撫で回す。
「いや、初めてにしちゃあ上等だ。そうだろう、“オラクル”」
カタギリが呼びかけたのは、腕の端末だった。ホロディスプレイには通話相手のアイコンは表示されていない。ただ先程クリップしたマップと、インスタント・メッセージを受信したという通知が表示されているだけだ。
しかし突如として、企業のロゴのような――あるいはエンブレムのようなアイコンが、画面中央に現れた。それは音声チャットのウインドウではなく、まるで何か、別のアプリケーションが起動しているように、ウインドウレイヤー上で青白く輝いている。
「『メコノプシス・ナンバーセブン ホリドゥラ』、カタギリスズ。ようこそ、“広域事象観測管理局”へ――私は君を歓迎するよ」
柔らかな男性の声は、スズが知らない名前で、彼女を呼んだのだった。
